日中も無数の星々の光が地上に届いているのに、私たちにはそれが見えません。大気による太陽光の散乱の結果、空は青く映え、この強い色をとらえるように進化してきた私たちの視覚系は、空の色に埋もれた遠い星々の微かなシグナルを、とらえることができません。私たちは、光の可能性の、ごく断片にしかアクセスできていないのです。すべて生き物の身体は、それぞれの仕方で光を翻訳しています。何しろ、地球上で起こるほぼあらゆる現象は、もとを辿れば太陽から降り注ぐ光エネルギーを原動力としているのです。光の別様の可能性を探ることはしたがって、別の身体の可能性を、探索することにもなります。最優秀賞の「空の標本箱」を見たとき、僕はそんな「新しい身体」を感じました。二つの目で一つの空を見上げるのではなく、いくつもの目で、異なる空を見上げられたら。青い空を見る目と同時に、その奥から届く、微かな星々の光をキャッチする「もう一つの目」があったら。ひょっとすると、何百もの葉で同時に光を受け取る樹木は、この標本箱のように多様な空を経験しているかもしれません。考えてみれば樹木は、「光の翻訳家」として私たちの大先輩です。光について思考するとき、葉や草や土こそ私たちの先生だと言えましょう。Big glowing waveで描かれた風景のように、土に近づき、葉や草花と同じ高さにまで人間が降り立つことができたら、そこから見える光の可能性もあるに違いありません。結局、光は私たちが自力で生み出すものではなく、常に、他から与えられるものなのです。自力で光を制御しようとする強さより、光に身を委ねる素直さが感じられる作品に、僕の心は動かされました。
今年のテーマは、「光の可能態」とした。我々が認識する「色」は光の一つの態である。しかし、改めて考えてみれば、光、つまり太陽エネルギーがなければ地球の生命圏そのものが存在しない。我々の生きる世界そのものが「光の可能態」とも言えるわけだ。講評会では、単に空間や建築の表象や認識の問題にとどまらず、我々が生きる世界の実存的な議論にまで展開し、非常に楽しい時間を過ごした。
優秀の4作は、いずれも面白いアプローチだった。「霧の邂逅」は、霧という環境の中で、彫刻的な構造体と音によって、特別な空間体験をつくろうとするもので、経験してみたいなと思わせる美しい提案だった。彫刻の形や音ということと光ということの関係性をさらに深く思考していけば、もっとすごい提案になるのだと思った。「Big glowing waves」は、審査委員長の森田さんが見出した作品である。確かに言われてみると、色とりどりのフィルムを通過する多様な光と地面のテクスチュアの重なり合いからは、多様な態を捉えようという意思が感じられる。言葉や説明や図面がないので、余計に感性が際立つ作品であるが、もしもここに意図を示す一文、あるいは図面の説明があれば、大きく化けるのかもしれない作品のスケール感を感じたが、独特の世界観のグラフィックを観ていると、いやいやそうした説明は全て蛇足かもしれないな、という想いもしてくる。これはともかく一度会ってじっくり話をしてみたいなと思った。「長距離光が塗る家」は、光が地球に到達することをきちんと考え、空間として応答しようとした案で、全作品中最も緻密に空間設計がされていると感じた。ひとつ残念なのは、太陽だけを光源とした考えた点で、宇宙物理学において本来の長距離というのは、何千光年も離れた天体の発する光である。昼と我々が呼んでいる時間帯にも長距離からかすかな光がしかし膨大な数届いている。そんな認識できていない光までを取り扱うことができたのならば、文句なしに最優秀だったはずである。「都市の中で裸になる」は、光がチリに反射して生じるもやによって、他者同士がまるで温泉の湯舟の中にいるような一体感を持てるのではないか、という提案だった。光がつくる都市の中での態が、新しい人間の集団性を生み出すという、非常に健康的でソーシャルな視点を持っているのはいいなと面白いと思ったが、どこか単なる理想主義のファンタジーの域を出ないので、チリにせよ霧にせよ粒子的な物質の挙動をどのように制御するのか、そのあたりの物理学的なディテールを拡張していくのか、あるいは自身の世界観をもっと深く提案してほしかった。最優秀に推されたのは「空の標本箱」だった。森田さんが議論の中で発した「植物的身体性というのはこのような空間感覚なのかもしれない」という言葉が決め手になった。多軸に触手を伸ばすような同時多視点の空間構造の発見。透視図的な人間の空間認識を超えていく原器になりうるモデルかもしれない。作者には、我々の深読みを受け取ってもらって、さらなる展開があることを期待する。
このコンペの審査も今年で3度目となりました。一昨年のテーマは「色のはたらき」、昨年は「塗ること」、そして今年は「光の可能態」。出題には一貫して、事象や現象を遡った場所からはじまる思考への期待が込められていました。毎年変わる審査員長に、今年は独立研究者の森田真生さんをお迎えしたのも、出力としてのプレゼンテーションの上手さや洗練以上に、どんな目で世界を見るのか、その眼差しにこそ議論や評価を振り向けて行きたかったからに違いありません。
「空の標本箱」は、当たり前のようにそこにある空を、異なる物性を伴ったフィルターを介することで並列的に見つめる視点を発見し、それらを併置する、という圧倒的に単純な提案です。文章や表現の拙さを含めて、応募者にどの程度確信があったのかはさておき、その視点を深化させた先にある議論の可能性を最も感じられた提案として、最優秀賞に選ばれました。「長距離飛光が塗る家」は、太陽光という全波長的な対象を様々な装置を介して分解抽出する、という意味では似た切り口でありながら、それぞれに対応した室を個別かつ断定的に形態化してしまっている点に、密度の高い設計への評価と背中合わせの過剰さが拭えず、僅差での優秀賞に留まりました。
他に印象的だったのは、水蒸気によるホワイトアウトが視覚にもたらす情報深度に、風を介した音の情報深度を重ね合わせた五感的な場を描いた「霧の邂逅」。惜しくも賞は逃したものの、太陽という天体が拡散光源であることを地上で顕在化させる「Big glowing waves」や、出力メディアでしかないはずのプリント用紙の白そのものを対象化してみせようとした「都市の中で裸になる」などなど。
本コンペの特徴は、この審査が最終地点ではない事です。今後受賞者たちとは対話の場が設けられることになり、そこでの議論はきっと、この先もずっと思考の芯に残り続けるものとなるでしょう。じわじわ増え続けている応募総数に比例して、このコンペが徐々にその独自性を打ち出しつつある予感のする3年目でした。
審査員長 森田真生
日中も無数の星々の光が地上に届いているのに、私たちにはそれが見えません。大気による太陽光の散乱の結果、空は青く映え、この強い色をとらえるように進化してきた私たちの視覚系は、空の色に埋もれた遠い星々の微かなシグナルを、とらえることができません。私たちは、光の可能性の、ごく断片にしかアクセスできていないのです。
すべて生き物の身体は、それぞれの仕方で光を翻訳しています。何しろ、地球上で起こるほぼあらゆる現象は、もとを辿れば太陽から降り注ぐ光エネルギーを原動力としているのです。
光の別様の可能性を探ることはしたがって、別の身体の可能性を、探索することにもなります。最優秀賞の「空の標本箱」を見たとき、僕はそんな「新しい身体」を感じました。二つの目で一つの空を見上げるのではなく、いくつもの目で、異なる空を見上げられたら。青い空を見る目と同時に、その奥から届く、微かな星々の光をキャッチする「もう一つの目」があったら。
ひょっとすると、何百もの葉で同時に光を受け取る樹木は、この標本箱のように多様な空を経験しているかもしれません。考えてみれば樹木は、「光の翻訳家」として私たちの大先輩です。光について思考するとき、葉や草や土こそ私たちの先生だと言えましょう。
Big glowing waveで描かれた風景のように、土に近づき、葉や草花と同じ高さにまで人間が降り立つことができたら、そこから見える光の可能性もあるに違いありません。結局、光は私たちが自力で生み出すものではなく、常に、他から与えられるものなのです。自力で光を制御しようとする強さより、光に身を委ねる素直さが感じられる作品に、僕の心は動かされました。
審査員 藤原徹平
今年のテーマは、「光の可能態」とした。我々が認識する「色」は光の一つの態である。しかし、改めて考えてみれば、光、つまり太陽エネルギーがなければ地球の生命圏そのものが存在しない。我々の生きる世界そのものが「光の可能態」とも言えるわけだ。講評会では、単に空間や建築の表象や認識の問題にとどまらず、我々が生きる世界の実存的な議論にまで展開し、非常に楽しい時間を過ごした。
優秀の4作は、いずれも面白いアプローチだった。
「霧の邂逅」は、霧という環境の中で、彫刻的な構造体と音によって、特別な空間体験をつくろうとするもので、経験してみたいなと思わせる美しい提案だった。彫刻の形や音ということと光ということの関係性をさらに深く思考していけば、もっとすごい提案になるのだと思った。
「Big glowing waves」は、審査委員長の森田さんが見出した作品である。確かに言われてみると、色とりどりのフィルムを通過する多様な光と地面のテクスチュアの重なり合いからは、多様な態を捉えようという意思が感じられる。言葉や説明や図面がないので、余計に感性が際立つ作品であるが、もしもここに意図を示す一文、あるいは図面の説明があれば、大きく化けるのかもしれない作品のスケール感を感じたが、独特の世界観のグラフィックを観ていると、いやいやそうした説明は全て蛇足かもしれないな、という想いもしてくる。これはともかく一度会ってじっくり話をしてみたいなと思った。
「長距離光が塗る家」は、光が地球に到達することをきちんと考え、空間として応答しようとした案で、全作品中最も緻密に空間設計がされていると感じた。ひとつ残念なのは、太陽だけを光源とした考えた点で、宇宙物理学において本来の長距離というのは、何千光年も離れた天体の発する光である。昼と我々が呼んでいる時間帯にも長距離からかすかな光がしかし膨大な数届いている。そんな認識できていない光までを取り扱うことができたのならば、文句なしに最優秀だったはずである。
「都市の中で裸になる」は、光がチリに反射して生じるもやによって、他者同士がまるで温泉の湯舟の中にいるような一体感を持てるのではないか、という提案だった。光がつくる都市の中での態が、新しい人間の集団性を生み出すという、非常に健康的でソーシャルな視点を持っているのはいいなと面白いと思ったが、どこか単なる理想主義のファンタジーの域を出ないので、チリにせよ霧にせよ粒子的な物質の挙動をどのように制御するのか、そのあたりの物理学的なディテールを拡張していくのか、あるいは自身の世界観をもっと深く提案してほしかった。
最優秀に推されたのは「空の標本箱」だった。森田さんが議論の中で発した「植物的身体性というのはこのような空間感覚なのかもしれない」という言葉が決め手になった。多軸に触手を伸ばすような同時多視点の空間構造の発見。透視図的な人間の空間認識を超えていく原器になりうるモデルかもしれない。作者には、我々の深読みを受け取ってもらって、さらなる展開があることを期待する。
審査員 中山英之
このコンペの審査も今年で3度目となりました。一昨年のテーマは「色のはたらき」、昨年は「塗ること」、そして今年は「光の可能態」。出題には一貫して、事象や現象を遡った場所からはじまる思考への期待が込められていました。毎年変わる審査員長に、今年は独立研究者の森田真生さんをお迎えしたのも、出力としてのプレゼンテーションの上手さや洗練以上に、どんな目で世界を見るのか、その眼差しにこそ議論や評価を振り向けて行きたかったからに違いありません。
「空の標本箱」は、当たり前のようにそこにある空を、異なる物性を伴ったフィルターを介することで並列的に見つめる視点を発見し、それらを併置する、という圧倒的に単純な提案です。文章や表現の拙さを含めて、応募者にどの程度確信があったのかはさておき、その視点を深化させた先にある議論の可能性を最も感じられた提案として、最優秀賞に選ばれました。「長距離飛光が塗る家」は、太陽光という全波長的な対象を様々な装置を介して分解抽出する、という意味では似た切り口でありながら、それぞれに対応した室を個別かつ断定的に形態化してしまっている点に、密度の高い設計への評価と背中合わせの過剰さが拭えず、僅差での優秀賞に留まりました。
他に印象的だったのは、水蒸気によるホワイトアウトが視覚にもたらす情報深度に、風を介した音の情報深度を重ね合わせた五感的な場を描いた「霧の邂逅」。惜しくも賞は逃したものの、太陽という天体が拡散光源であることを地上で顕在化させる「Big glowing waves」や、出力メディアでしかないはずのプリント用紙の白そのものを対象化してみせようとした「都市の中で裸になる」などなど。
本コンペの特徴は、この審査が最終地点ではない事です。今後受賞者たちとは対話の場が設けられることになり、そこでの議論はきっと、この先もずっと思考の芯に残り続けるものとなるでしょう。じわじわ増え続けている応募総数に比例して、このコンペが徐々にその独自性を打ち出しつつある予感のする3年目でした。